心の深淵には何人たりとも不可侵であるという話です。
現代社会において人間同士の交流、また夫婦や恋人間での交流には意思の疎通が前提とされており、映画やドラマ・小説などではしばしその疎通が誇張されている表現が多く用いられるがどうなのでしょうかそれは。
そもそも現代社会の多くのエンターテイメントを支えている「愛」とは何か。歌謡曲から映画・ドラマ、多くのエンターテイメントやメディアの興行を支えているのは「愛」というテーマに他ならない。が、しかし人類にはもともとそんなものは存在しないという所からお話しなくてはならない。
貞操観念について調べて頂けるとわかる通り、貞操観念の起源は比較的新しく、日本において一説には明治維新以後に生まれたという説もあるほど近代の文化のひとつである。が、現代においては唯一愛や貞操観念があたかも古から存在するかのような扱いですが、それはいろいろと間違っていたりします。
と、いうことで現代のメディアが垂れ流しているような愛という無形の存在は、ある種の偶像であり、それを大衆が求めるため間違った方向に情報が流布していると推測されるわけです。
なんでそんな話になるかっつーとまず人間の基本として「人と相容れない」という要素と「基本的に孤独」という2つの前提のもとのお話だからです。深夜なので文章が非常にアレなのはご了承ください。人間の精神は自身から出ることができず、また他人の精神を見ることもできないため人間の基本は孤独であり、それは必然といえます。しかし現代は「孤独」を敬遠する文化が根付いてしまいました。
なぜ孤独を敬遠するか、それは集団と社会性からくる錯覚で、猿と同じように集団行動をとるヒトですがその集団行動と人間社会がコミュニケーションを生み、それがズレてアンチ孤独という思想を生んでいると推測できます。
取り留めのない文章ですが、とりあえずアインシュタインも言ってますが人間は孤独を愛する生き物です。それが社会や集団の中で見えなくなっている状態が現代と考えられます。
で、なんでこんなことを書こうとおもったか忘れてしまいましたが、とりあえず自分の心の深淵には不可侵であり、他の介入の一切を許さないものだと言う事です。それを前提にものを見ると今の社会って間違ってますよね。
[ 更新:2008-04-14 03:31:08 ]