最近、裁判沙汰が多いですね。「欧米かっ!」とツッコミたくなるほど裁判が日本国内でも増えております。
裁判のテーマはやはり責任の所在を明確にして、賠償を求めるというところにあるのでしょうか。
あまり法に関することは詳しくありませんが、最近では薬害肝炎訴訟なんてのがニュースで取り上げられておりました。
さぁ、さてさて責任の所在ということで、日常生活においても責任を押し付けるような光景をよく目にするわけですが。
薬害問題の場合、誰に責任があるんでしょうか。国?国の場合、国のいったいどこらへん?なんか対象が大きいとどこら辺に責任が本当にあるかなんてまったくわかりませんが、国という組織だったりシステム自体に責任があるってことになるんでしょうか。しかし国を創っているのは政治家ではなく国民です。となると国民に責任が?客観的に考えるとちょっと無茶ですが。
飛行機が落ちたらやっぱり航空会社に責任が?それとも飛行機を作った会社?またはパイロット?
そもそも責任とは何か。辞書でひいてみました。
「立場上当然負わなければならない任務や義務。」
なるほど。わかりやすい。
では個人ではどうなんだろう。最近は企業や国に対して責任を押し付けるばかりの裁判が目立っている気がする。それじゃあなにか、大衆は責任を国や企業に押し付けて、無責任で生きていけるというのか。どうなんだそれは。
人間は生を受ける段階ですでにひとつの選択というか競争を乗り越えてきているわけだ。そう、オヤジの金玉からオタマジャクシ数億匹の大レースを突破し、見事生を受けた段階でそれはもう意思と言っても過言ではないと思う。言うなれば生まれることを精子が選択した時点で人間としての責任を享受したと考えられるのではないだろうか。
よく馬鹿な人間が「生まれたくて生まれたわけではない」なんて言ったりしますが、それは明らかに間違っており、生まれたいから数億の競合を押しのけて見事、生を勝ち取った言うなればエリート中のエリートなのだ。それは紛れもなく「生きたい」という意思が働いていると思う。
そうして生まれた瞬間からやはり全ての業や責任は自分が背負うべきではないか。
飛行機が落ちれば、その飛行機を選んで乗った自分が悪いし、地震で家が壊れれば、そこに住んでいた自分が悪いで済むじゃないか。そうすればすごく気持ちが楽になるじゃないか。
隕石が落ちてきて、大怪我をしたらやっぱりそれでも国が悪いのでしょうか。
何十億人が生きている地球で確実な安全・安定などありはしないし、それは求めるべきでもないと思う。
この世に生を受けたことをまず、感謝するところからはじめれば、きっと全ての責任が自己に回帰することに気づくのではないだろうか。
自分に責任があるのであれば、あとは頑張ればよい。
[ 更新:2007-12-16 14:05:56 ]