暴力
昨今の社会は暴力を一方的に排他する方向。
暴力は存在してはいけないのか?
暴力肯定派として言わせてもらうが、暴力は人間社会や生物の世界にとって無くてはならない存在だと考えられる。
意思の伝達率が100%の生命があったならば暴力というものは無くなるだろう。
しかし、そんな生命体はこの宇宙に存在しない。
※現時点では。
たしかに人間は言葉という能力をもち、相手と意思の疎通を取ることが可能ではある。だが意思の伝達率は決して高いわけではない。
相手と自分の環境などの違いによって、同じ言葉も意味を変え、また相手のヒアリング能力によってもその意味の性質を大きく変える。
その「言葉」という伝達手段でまかないきれない部分を暴力は補ってくれると考えている。もちろん、ただの暴力はただの暴力であるが。
何かを相手に伝える手段、またはキッカケを与える手段として暴力の存在意義は間違いなくある。
最近は教師が生徒に手をあげれば「校内暴力」
生徒同士の喧嘩も裁判沙汰。
痛みを知らずに育つ事はとても危険なこと。
殴られたら痛い。殴ったら相手が痛い。
それを知るためにも暴力は必要不可欠。
犬猫のしつけと同じである。
人間は言葉という文化を確かに有してはいるが、それを100%完全に活かしきれている人間などいない。ましてや子供ならなおのこと。
口で言ってわからないのであれば諦めるか、暴力を用いて相手にキッカケを与えるしかあるまい。
戦争がなくならない理由もまさにそういうこと。
完全な相互理解という概念が成立しない限り、争いも暴力も消えることは無い。
まぁ駒大苫小牧の暴力事件で「練習中にミスをしたにもかかわらずチラッと見せる白い歯」はさすがに指導者として殴ってもいいと思う。和田も野球をやっていた時、三振してニヤケながらベンチに戻ったらひっぱたかれました。姿勢の問題。本気で取り組んでいないということ。そういう輩には口で言っても無駄。殴られただけマシだろう。殴るか退部にするかどっちかだもの。親も親だよな。しゃしゃり出てきて。ほんと馬鹿な親には困るわ。子供は温室で育てても社会に出たら死んじゃうよ。こういう親がニート量産してるんだ。
「ただの暴力」は確かに問題外だが、意思伝達法のひとつとしての暴力を否定することは人として間違っていると北海道の中心 富良野で叫んでみたいですね。
[ 更新:2005-08-25 12:51 ]