亀田問題も、沢尻問題も、もういいんじゃないだろうか。
民間のマスメディアは情報を発信するのではなく、情報を仕入れ・着色し・発信する。
それはまるでコンビニの明太子のようでもあるし、コンビニの漬物のようでもある。その心は、そのまま素材を活かせば良いのに「おいしく見えるように着色」して「おいしくなるように化学調味料を足す」ということ。
情報というカタチの無いものでそれをやってしまうと、何が真実で何が脚色なのかわからなくなる。「真実を伝えるのがジャーナリズムである」という言葉をジャーナリズムのかけらもないような人間が口にしていたが、テレビという媒体が淘汰される日は案外近いのかもしれない。
情報の真偽に関してはやはり個人レベルでの判断力が必要になるのはインターネットもテレビも新聞も変わらないのかもしれないが、テレビや新聞といった一方通行の情報媒体においては、より個人レベルの判断力が強く求められる。インターネット上に関して言うと、比較的コミュニティ(井戸端会議的な)が多く存在し、個々が意見を発信している関係もあり情報の真偽にたいする判断材料は多いといえる。
亀田問題も沢尻問題もマスメディアはとにかく刺激を民衆に提供したいようだ。でもマスメディアが本来提供すべきなのは「情報という素材」そのもののはず。どこでどう履き違えたのかはわからない。聴衆者の喜ぶ顔がみたいが故の勇み足なのかもしれないが、マスメディアには本来の情報発信という主軸を外してほしくない。
そういう意味で亀田も江尻も被害者といえば被害者。亀田も沢尻もあれでいいじゃないか。思ったことを口にして駄目な社会を作ってはいけない。調子こいていいじゃないか。人間なんだから。それを聴衆者の顔色を伺って持ち上げたり叩いたり、それは間違っている。本質を逸脱した行為だ。
言いたいことを言う。やりたいことをやる。結果、社会からどう思われようと、人間は可能な限り自分の意思に忠実でいるべきだ。それが自己顕示であり自己表現ってものでしょう。それにより周囲から嫌われようが叩かれようがそれは社会の回答がそうであるべきであって、マスメディアがそれを判断することではないのだ。
政治関連の報道に関しても色濃くそういう体質が見受けられるが、インターネットという巨大な情報媒体がシェアを広げている今、テレビや新聞はそのあり方をもっと考える時期にきたのかもしれない。
[ 更新:2007-10-27 01:26:22 ]